本感想: The Great Gatsby

The Great Gatsby を読みました。以下、ネタバレを含む感想です。

物語を通じて描かれたのは人が何かに依りかかる様であり、それは夢として、逃避として、支配として、時に滑稽に、時にグロテスクに描かれていた。

ギャツビーは分不相応の成功を夢見て、それに邁進することで経済的裕福と、貴族的マナリズム、英雄的戦績を勝ち得た。そして残すところは一文無しの時合に焦がれた身分違いの姫としての、デイズィと結ばれることだけであった。それゆえ、デイズィと結ばれたいと思う心は、恋の作用によるものではなく、それがかつて夢見た成功の、どうしても欠かすことのできないピースであったからのように思える。

デイズィは錨を求めた。何一つ決めることのできない自分の代わりに、何もかもを決めてくれる存在を。夢遊病のように漂う自分を、現実に立たせてくれる力を求めた。しかし、それは自らの弱さに目を背ける逃避でしかなく、直視せねばならぬ状況に陥ったとき、例えばトムとの結婚式で泣きじゃくり、ギャツビーに求められるままトムへの愛を否定しようとした際に際立っていたが、彼女はとても無力であり、とても哀れに映った。

トムはサディストの放蕩家であった。露骨な弱さを見せることは無かったが、他人を自分の意思に従わせることで自らの平穏を保ち、自分から離れようとする人間には強い愛着を示すといった、サディズムの典型を、言うならば支配を通じた弱さの隠蔽を垣間見た気がした。

共通して言えることは皆が自分以外の何かに、もっと言えば理想と他人に、自分を委ねてしまっていたことだ。だからこそ、何かにとりつかれたような非人間的なグロテスクが顔を覗かせることがあった。その意味で言うと、主人公はスケールこそ小市民ではあれ、この点を逃れえていない。誰もが証券ビジネスをやっていたからその職を選び、父の忠告通り寛容の心を持ち、自らの決断で間違いと思うことを正そうとはしない。ギャツビーの葬式で参列者を求めて遁走したのも、世間一般の通例的義憤に駆られた行動であっただけのようにも解釈できる。

 

「あいつらはくだらんやつですよ。」「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある。」

"They're a rotten crowd." "You're worth the whole damn bunch put together"

 

この言葉が、しかし、この言葉だけが、これまで述べてきた全てを吹き飛ばして燦然と輝く。作中で出し抜けに発せられたこの言葉は、主人公がギャツビーに向けて言った言葉だが、これはギャツビーに対する信頼と不信、感謝、その強さと弱さ、全てをひっくるめた、ギャツビーという存在に対する肯定の言葉だ。ギャツビーの葬式に、彼の父親と主人公以外誰も顔を見せなかった事実は、絢爛な彼の人生が実に空虚であったことを示すかのようだが、主人公のこの言葉だけが、そうではない、そうではないんだと、それを否定してくれているようだ。私はそれを、とても美しいと思った。